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§2. 著者略歴

Thomas S. Kuhn (1922-1996) was professor emeritus of philosophy at the Massachusetts Institute of Technology until his death June 1996. His books include The Essential Tension; Black-body Theory and the Quantum Discontinuity, 1894 - 1912; and The Copernican Revolution.

The Structure of Scientific Revolutions - Third Edition,
(The University of Chicago Press, Chicago, 1996) より。

2.1 Khun の時代

Kuhn と同時代の思想家をあげてみよう。

  • 両議性の哲学,身体論的現象学の M.メルロ=ポンティー 1908-1961 (1942 行動の構造, 1945 知覚の現象学)、
  • 記号論的精神分析(無意識=他者のディスクール)の J.ラカン 1901-? (1966 エクリー)、
  • 実存主義の J.P.サルトル 1905-1981 (1943 存在と無, 1960 弁証法的理性批判)、
  • 記号言語学を文化人類学に応用し、文化相対主義を広めた C.レヴィ=ストロース1908- (1955 悲しき熱帯)、
  • Michel Foucault, Louis Althusserらに照射され再評価が高まってきている、科学史に一隅を成した A.コイレJ.カンギレムなど。
  • 判的合理主義=反証可能性の Sir K.R.ポッパー 1902-1994 (1945 開かれた社会とその敵, 1957 歴史法則主義の貧困)、
  • テクスト理論(エクリチュール、ディスクール --- デノケーション、コノケーション), 神話作用の R.バルト 1915-1980 (1966 批評と真実, モードの体系)、
  • 認識論的切断,ネオ・マルキシズムの L.アルチュセール 1918-1990 (1966 マルクスのために)など。
  • コミュニケーション行為の ハーバーマス
  • 社会システムの ルーマン
  • ノマドロジー(遊牧民的思想、戦争機械), スキゾアナリーズの哲学者 G.ドゥルーズ 1925-1995 (1967 冷たいものと残酷なもの [邦題:マゾッホとサド], 1968差異と反復)、
  • 其の盟友である批評家 F.ガタリ (1979 機械状無意識) (1972 アンチ・オイディプス, 1980 ミル・プラトー  by G.D. and F.G.)、
  • 歴史の脱中心化, アルケオロジー, エピステーメの M.フーコー1926-1984 (狂気の歴史, 1966 言葉と物) (フーコーそして/あるいはドゥルーズ  by M.F. and G.D.)

時代のモードは、記号論による形而上学の超克、実存主義から構造主義への移行といったところである。「〜構造」の出版は、ポスト構造主義、ポスト・モダニズム未明の頃、パラノイアックなモダニストとスキゾフレニックなポストモダニストとの闘争の頃といって良いだろう。

二十世紀初頭は、ヘーゲルの計画を全面的に推進しようとしていた論理実証主義の最盛期であり崩壊期である。文化人類学では「文化相対主義」 (cultural relativism)、歴史ではアナール学派の周縁からの歴史再解釈が始まった。また、数学ではゲーデルの「不完全性定理」が発表されて、ヒルベルト計画が完全に息の根を止められている。

2.2 本書成立までの Khun の略歴

The Structure of Scientific Revolutions (Third Edition), The University of Chicago Press, Chicago, ©1962, 1970, 1996 (以下 The Structure-)の Preface には、著者の自伝的断片、本書の成立した背景が述べられている。「人は自分の歴史家でも精神分析家でもない」としながらも、パラダイム (paradigm) 成立にまつわり、以下のように分析している。

彼は元々理論物理学専攻であったが、大学院博士後期過程の終盤に、文系学生対象の、歴史的文脈における物理科学教育コースに参画し、サイエンスに対する認識が揺らいだと云う。これが理論物理屋をして科学史家へ転向せしめた所以であると彼は述べている。

A fortunate involvement with an experimental college course treating physical science for non-scientist provided my first exposure to the history of science. To my complete surprise, that exposure to out-of-date scientific theory and practice radically undermined some of my basic conceptions about the nature of science and the reasons for its special success.

その後彼は、3年間 Junior Fellow of the Society of Fellows of Harvard University として理論物理学の研究を本業とするかたわら、かなりの時間を科学史そのものに費やしたという。このとき Alexandre Koyré の諸著作(ex. 閉じた世界から無限宇宙へ 横山 雅彦 訳 みすず書房)を耽読し、多くの啓発を受けたと云う。他に Kuhn が影響を受けたと明言しているのは、 Emile Meyerson, Hélène Metzger, Anneliese Maier, A. O. Lovejoy, Jean Piaget, B. L. Whorf, W. V. O. Quine, Ludwik Fleck, Francsi X. Sutton.

本業(理論物性物理学)の方では1949年に物理学の博士号を受けている。この Junior Fellow の最後の年に彼は、 Lowell Institute in Boston の講師として招聘され、1951年3月に、"The Quest for Physical Theory" なる8回に渡る公開講座を受け持っている。この時既にパラダイムと科学革命理論に付いての萌芽を持っていたと云うが、今だ未熟なものに過ぎず、この講演録の刊行も見合わされている。

それ移行、科学論に関する組織的な専門教育を受けないまま、科学史の専門学生 (科学史プロパー)を指導し始め 、十年あまり教育の義務を負いつつ、学説史的な研究に励む。この頃の論文で扱っていた話題は、次のようなものである;

  • The integral part played by one or another metaphysic in creative science research,
  • The way in which the experimental bases of a new theory are accumulated and assimulated by men committed to an incompartible old theory

これらは、発見や新しい理論の "emergence" と呼ぶ型の発展を記述するものであるが、主に学説史に限定した科学史に関するものであり、 Kuhn が科学哲学家ではなく、科学史家であることを物語っている。

The Structure- の最後の仕上げ段階は、 1958-59 の行動科学先進研究センター (the Center for Advanced Studies in the Behavioural Science) に招聘された時に完成された。

ここで社会科学者のコミュニティーで過し、学位取得まで過した自然科学者のコミュニティーとの相違と云う予期せぬ問題に遭遇した。この問題とは、社会科学者の間では、多くの点で、そして広い範囲で「正統な科学的問題と方法」 (the nature of legitimate scientific problems and methods) に関する衝突がみられたが、このような根本的な問題に関する議論は、通常は所謂自然科学者の間では起こらないと云う点であった。この相違を解明せんとして、彼がパラダイムと呼んできたものの、自然科学の研究の場における役割を認識するに至ったと云う。

1959 年にユタ州立大学で行われた会議 (The Third University of Uhta Research Conference on the Identification of Creative Scientific Talent) で、「本質的緊張 ― 科学研究における伝統と革新」(The Essential Tension: Tradition and Innovation in Scientific Reserch) と題して公演し、 The Structure- (1962, 1970) の根本的な問題意識について表明している。この公演は The Essential Tension (1977) 第九章に収録してあり、パラダイムと云う用語がはじめて使われたものこの公演である。

ここで云うパラダイムとは、一般に了解されている科学的業績のことであり、一時期に、研究者のコミュニティーに対して、モデルとなる問題と回答を与えるものである。

I take paradigms to be universally recognized scientific achievements that for a time provide model problems and solutions to a community of practitioners.

これは、具体性には欠けるものの、非常に簡潔な定義である。この文章は The Structure- の "Preface" に記載されている。これは本文が脱稿された後に記述されたものであるから、このまとめ方がパラダイムに関する最も本質的なものであると了解するのが、 KUHN に対する好意的な解釈だろう。

2.3 Paradigm 概念の誕生

Kuhn の科学論に関する論文集である The Essential Tension, The University of Chicago Press, Chicago, ©1977 (安孫子誠也・佐野正博訳:本質的緊張 1、2、みすず書房、1987) の「自伝的序文」には、パラダイムの最初の着想について詳しく触れられている。

理論物理学専攻、博士後期過程の最後の年に、文系の学生に物理学を歴史的観点から教えると云う実験的な教育コースに参画した時のこと、アリストテレスの自然学 (physics) に於いて、ニュートン力学的な運動がどの程度知られており、また知られていなかったかを調べると、驚くほど全く知られておらず、なにか触れられている場合には、悉く勘違いと端的な誤りに満ちていた。一方で、生物学、政治行動などの諸分野においては水際立った観察力、洞察力を示しているのに、物理学に関してだけこれほどの誤りを犯すことが有得るだろうか?また、中世暗黒時代を挟むとは云え、 Aristoteles (A.D.384-322) からルネッサンス (B.C.14c-16c) までの 1500 年の間、これほど見え透いた誤りが、真面目に考えられ受け入れられてきたのは何故だろうか?事実、古典物理学と似た所は全く無く、 Nicolaus Copernicus (1473-1543), Johannes Kepler (1571-1630), Galileo Galilei (1564-1642), René Descartes (1596-1650) らは、古典近代的な力学を一から建設しなければならなかった。

Kuhn は、忘れられない(非常に暑かった)ある夏の日、自分の研究室の窓から向いの通りを眺めていた。(私は今でも、道の向い側に並ぶ葡萄の木と半ば垂れ下がったブラインドをありありと思い浮かべることができる。)突如アリストテレスの読み方を与える一貫した基本原理を悟ったと云う。彼が悟った所に寄れば、アリストテレスにおける物理学は、現在の物理学に照らして誤っているのではなく、比較し様が無いほど異質なものだった。彼においては、物理学の基本的な問題設定、対象の同定方法、用語が異なっているのである。例えば、運動は、ニュートン力学的にモデル化される物体の運動では無く、石の落下と同様に、人間の成長も含む、質的な状態の変化を指していると考えることで理解出来た。

以下は、現在の私の視点からは当然にして自明の事のように思える。が、 Kuhn の回想する当時としては文化相対主義は今だ確立されておらず、新しい概念であったかもしれない。そのことを適切に考慮することは現在の私にはできないが、今後物理学説史、科学史を勉強することで克服したい。

石の運動は、ニュートン力学的には、物体(質点)の位置が時間的に変化することを指すが、アリストテレス的には、石の位置と云う状態が変化することであり、或る個人が成長して子供から大人になるのと区別する所がない。即ち、有る人を理解したいと願う時に、単に彼の位置の時間的変化を記述できただけでは、理解したことにはならないのと同様に、運動を時間的変化に抽象させることは、アルストテレスの主張する、経験事実に即した個別的現象の全面的理解と云う原則の下では、ちゃんちゃらおかしいのである。アリストテレスにおいては、物体の運動としての離合集散と、人の愛憎悲喜は区別され得ない。

アリストテレス物理学は、実経験に即した質的一般に対する全面的な理解を目的としたものであり、宇宙の永続的で根源的な構成要素 (elements) は物ではなく、質そのものである。遍在する可能態 (dynamis)(中性の質料 hyle)に、形相 (eidos) が押しつけられ、内在すると、個々の事物(現実態 energeia)が構成される。

即ち、アリストテレス物理学においては、匿名的な物体(三角形、机、石)と云う概念はなく、内在した形相に応じた特定の事物(この三角形、この机、この石)が根本概念である。これが形相、本性的な位置を目的として変化する過程が運動であり、ニュートン力学的な位置の変化以外の変化一般と区別されない。これを、歴史的に勝利した側の語彙や前提を基にして、物体と云う観点からデカルト的な座標系で考えれば解釈できないのは当然であり、学説史的には、最も真理性が高まる文脈において読むことが要求される。

これは脱西洋・脱近代絶対主義に応ずる文化相対主義の科学史版である。19世紀末から20世紀初頭にかけて、人間(=西洋・男性)中心原理が覆されるに至った流れの自然な現われだろう。

ダーウィンの進化論によって「人間は神の似姿」という都合のよい欺瞞はなくなり、フロイト、ユングによる無意識の発見(発明)は理性の勝利を侵犯したかに見られ、文化人類学による文化相対主義は西洋中心主義を打ち滅ぼした。

自ら批判的合理主義と呼ぶ枠組みの中で反証可能性を唱えて実証主義を擁護した哲学者 Popper が独逸人、新科学哲学に属する相対主義者 Kuhn が亜米利加人であるという事は偶然ではない。

このニュートン力学的観点から離れて初めて、アリストテレス物理学的枠組みを理解出来ると云う経験が、後の共約不可能性 (incommensurabirity) の出発点であり、相互に共役できない学問の母型をパラダイム (paradigm) と呼ぶことになる。そして、共役不可能なパラダイム間の移行が科学革命 (scientific revolution) である。

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文責;菅井 学 Sugai Manabu, E-mail : SUGAI, Manabu.
(11th/Mar./2001)
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