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§1. 本書の背景

本書は科学論の最も有名なものの一つであり、ファイヤー・アーベントと共に、新科学哲学を代表するものの一つである。

1.1 論理実証主義と批判的合理主義

論理実証主義とは、 20c 初頭にウィーンで始まった哲学的運動で、科学的知識は実証されなければならないとする態度であり、その理論的背景には、記号論理学、言語学の手法が用いられていた。多くの哲学者、科学者が参加し、強い影響力を持っていた。

この思想活動は、科学史、科学哲学に関する伝統的な流れを踏襲し、徹底させたものと見ることができる。まず、二十世紀までの科学史、科学哲学の萌芽に付いて、かいつまんで追ってみよう。

17 世紀科学革命 the Scientific Revolution

Fransi Bacon (1561-1626) は、アリストテレス以来の演繹法を、独断的前提に基づいた特殊な事実を述べているだけであると考え、多くの事実の間の共通本質を求める帰納法を科学的態度であると提唱した。以来、イギリス経験論は、 John Locke (1632-1704)、 George Berkeley (1685-1753)、 David Hume (1711-76) に継承されていく。

一方、フランスの Renè Descarte (1596-1650) は伝統的学問に対して懐疑的立場を取り、疑い得ない明証的なものから理性によって演繹したものこそ真理であると考え、アリストテレスの伝統である経験事実に即した個別的事物の全体的理解を原則とする目的論的自然観に対して、数学的に抽象された匿名的な対象を実在とする因果的機械論的自然観を確立させることで、古典力学の進むべき道を掃き清めたと云える。

以降、経験的に疑い得ない法則を帰納し、そこから演繹的に理論を構成すると云う方法が主流となり、何れを重視するかにおいて、経験論的帰納主義者と合理論的演繹主義者が対立する。

Sir Isaac Newton (1643-1727) は自身の科学的態度を実験哲学であるとみなし、ベーコンの帰納法を推奨した。彼は、実験から引き出し得ないものは全て仮説であるとみなし、「我は仮説を作らず」と標榜した。一方、 Gottfried Wilhelm Leibniz (1646-1716) は根本原理から演繹された命題を真であるとする合理論の立場を取っていた。しかし、合理論のよってたつアルストテレス的な接触作用(デカルトの渦動理論)がニュートンの万有引力に敗北して以来、経験論的帰納主義が主流となる。

帰納主義は解析力学と啓蒙主義思想家の Jean Le Rond d'Alembert (1717-1783)、電磁現象の André Marie Ampére (1775-1836)、熱伝導現象の記述によってフーリエ級数展開を開発した J. Fourier らによって科学方法論の主流として受け継がれていく。そして、社会学の祖とされる Auguste Comte (1798-1875) によって哲学的な実証主義へと収斂する。

コントによれば、人類知識の発展は、神学的段階、形而上学的段階、実証的段階の3段階に分かれると主張し、社会的進歩も軍事的、法律的、産業的段階を経ると考えられた。

物理学におけるこの流れは、機械論的自然観、力学的世界観と歩を共にして、近代物理学の発展を強力に牽引したと断言できる。しかし、既成の実験事実から帰納法によって得られた法則も、高度であればそれだけ新たな現象を予測する能力を持ち、その全てを説明できるとは限らないと云う点では仮説であり、また、法則の抽出自体も、今日で云う作業仮説無くしては実験事実からは得られないと云う点に注意しておく必要がある。なにしろ、力学的世界観自体が、ドグマであって、実証的でないのは歴史が示すところであり、 KUHN の文脈で云えば、強力なパラダイムとして機能していたと云える。

実証主義の流れはその後、現象論、経験主義と絡み合いながら受け継がれ、そして19世紀に至り、現代的意味での「科学」、「科学者」が自然哲学から分化していく。この流れで最初の科学史、科学哲学を担ったのが、十九世紀中葉の科学者、哲学者であり、それを代表するのが、現象論的還元主義とマッハ原理の Ernst Mach (1838-1916)。そしてウィーン学団 の論理実証主義へと続いていく。

ウィーンの E. マッハが提唱する現象論的還元主義は、ニュートン力学の絶対時間と絶対空間の概念が形而上的な空想物に過ぎず、また質量や運動法則が循環論的であり、操作主義的にしか定義できないことを示した。しかし、この流れ全体に云えることだが、帰納主義を標榜したニュートンがマッハによって批判されたように、実際には還元論的思想を担った科学者自身の業績は還元主義的ではなく、事実、仮説の導入無くしては有り得なかった。マッハによるマッハ原理自体が還元主義的ではないと解釈することも出来るし、狭い意味ではまさにそのとおりである。

論理実証主義 (logical positivism) とウィーン学団

そして、このマッハ流の実証主義を継承したのが、同じくウィーンで発足したウィーン学団 (1922-1938; ナチスの弾圧により解体) による論理実証主義である。ウィーン学団成立当時の思想的背景には、次のような点が指摘される;

  • 19世紀末に相次いで発表された非ユークリッド幾何学による、公理系に対する実在論の崩壊
  • 同時期のゲオルグ・カントールの集合論による、数学基礎論の勃興
  • 20世紀初頭のゴットロープ・フレーゲによる論理主義
  • バートランド・ラッセルによる集合論のパラドックス(ラッセルのパラドックス)
  • アルフレッド・ホワイトヘッドとラッセルによる論理主義をシステム化する試みと、その一応の成果である、述語論理の公理系から出発した自然数論、実数論、解析学の導出(プリンキピア・マテマティカ、1910-1913)
  • ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインの論理哲学論考 (1918脱稿, 1922出版)

このような時代背景において、ウィーン大学教授であった位相幾何を専門家とする数学者 H. ハーンと、彼によって招聘された M. シュリックを中心とする、自然科学者、数学者、哲学者、学生による私的研究セミナー(シュリック・サークル)が発足した。 主催者の M. シュリックは、物理学の学位を取得後、一般相対論の哲学的解釈、帰納科学の哲学を研究していた。シュリック・サークルは、 1926年に講師として赴任したルドルフ・カルナップを加えて更に本格化し、ウィーンのシュリック・サークルを中心とした「エルンスト・マッハ協会」と、ベルリンのヘンペルらによる「経験哲学協会」が、 1929 年に合同集会を持ったところからウィーン学団が始まる。

ノイラートによって命名されたウィーン学団は定例会を持ち、マニュフェスト(綱領文書)科学的世界把握 - ウィーン学団 を刊行し、当時のインテリゲンチャに絶大な影響を与えた。因みに、この綱領には、科学的世界観の指導的代表者として、アインシュタイン、ラッセル、ウィトゲンシュタインの名前が挙げられている。

但し、ケンブリッジの B. ラッセル (Bertrand Russell; 1872-1970) 以外はこの運動に全く参加しておらず、L. ウィトゲンシュタイン (Ludwig Wittgenstein; 1889-1951) に至っては、全く経験論的な還元主義を持ち合わせておらず、論理実証主義自体も批判している。何れも、「真なる命題の全体が自然科学の全体である」と主張し、形而上学を排除すると云う点では共通したが、最も先鋭に対立したのが、論理実証主義の検証可能性テーゼ「有意味な命題はすべて経験的に検証可能でなければならない」、「真なる命題は検証可能な命題であり、偽なる命題は反証可能な命題である」と云う点である。

この運動には、次のような人物も直接的、間接的に参加していた;

  • 不完全性定理 (1931) でヒルベルト・プログラム (1928-) を一夜にして否定的に決着させた Kurt Gödel (1906-78)
  • 論理実証主義を批判的に継承した批判的合理主義の Kark R. Popper (1902-94)
  • 後に最も先鋭に論理実証主義を批判する Paul R. Feyerabent (1924-94)

論理実証主義の科学哲学

論理実証主義の目的は、形而上学を、感覚的経験によって判定する術が無い命題を無意味であり、価値が無いとして退け、真に有意味な命題と概念の論理分析を果たすこと、即ち、論理分析による概念の明確化であった。そこでウィトゲンシュタインの論理哲学論考 (Tractatus Logico-Phylosoficus, 1921,22) の果たした役割は大きいが、それは別の話。

この、論理実証主義における科学哲学は、科学論理学と自称され、個別科学によって経験的に分析された命題や概念の、論理的連関を解明し、経験的に実証する手続きを明らかにしようとしたのである。ここで、採用された「科学的方法」が、仮説演繹法である。

演繹法と帰納法は、アルストテレスに始まり、それぞれ R. デカルト、 F. ベーコンによって代表される。これらは、経験的なものに基礎を求める実証的側面と、生得的(理性的)なものに基礎を求める論理的側面に注目すると、経験的ファウンデイショナリズムと、演繹的正統化主義として理解出来る。これを止揚したものが、仮説演繹法である。

これは、経験的な証拠から、現象を説明する「真の原因 (vera causa)」や法則を帰納的に仮定し、そこから実証し得る個別的事実を演繹的に導き出し、それを経験的に検証、反証し、それに基いて理論を形成すると云う手順である。論理学者のなすことは、個別科学者により帰納的に提起された仮説に対して、検証可能命題を演繹し、経験的に実証すること、従って、既存の科学理論の正当化の手続きである。

この、意味の検証可能性テーゼに従って、当初は完全検証可能性「科学的命題は、有限個の観察可能な命題に、論理的に還元できる」が主張されていた。

論理実証主義の科学哲学を代表する R. Carnap は、この完全検証可能性を検討するに当り、マッハ流の還元主義的現象論に従って、中立の直接的経験から知識体系を構築しようと試みていた。これは、科学的知識を、観察命題の集合である観察言語と科学的命題の集合である理論言語とに明確に分離できるものとし、観察言語の部分が直接的経験に根差していれば実在するとみなす実証主義的立場である。これは観察言語の中立性を基盤とし、理論言語は観察言語を組織分類するための便宜上の道具であるとする。この態度を、道具主義とも呼ぶ。カルナップはその後、単純な還元主義的現象論からは客観的な理論体系が構成できないとして、物理主義へ転回した。これは、座標系を導入し、基礎的命題は、現象論的言語「熱さ」ではなく、物理言語「温度」で表現されなければならないとする立場である。

蓋然性の検証理論

この、意味の検証可能性テーゼは、ポッパーらウィーン学団内部から、科学的仮説である全称命題は、実験事実である単称命題の有限集合からは、理論的に導出できない事が指摘され、検証可能性の基準は、仮説が真であるとみなされる確率を与える蓋然性(確証)の概念へと転回して行き、蓋然性の検証が目標となった。

統一科学構想

論理実証主義の科学哲学の影響はもう一つ有る。それは、経験科学の言語論的統一、即ち、統一科学の理念、即ち、社会学は心理学へ、心理学は生物学・医学へ、医学は生物学へ、生物学は化学へ、化学は物理学へと、論理分析を通して還元されるべきであるとするものである。例えば、「全ての化学反応は、一つの量子力学的公式で記述できる」とする命題がこれに当る。これも、マッハの要素一元論、即ち、科学を感性的諸要素「色、熱、音、時間、空間」の函数関係の縮約的記述に帰着する存在論的統一を継承したものである。

この、統一科学 (Unified Science) の構想は、物理学的還元主義として計画され、ボーア、デューイ、ラッセル、タルスキらの参画の下 1938 年イギリスで計画され、ナチスによる弾圧の下、ウィーン学団の解体を経て、戦後アメリカに招聘されたカルナップらを中心にして実行に移された。それが「統一科学基礎シリーズ」の刊行であり、その第二巻第二号こそが、 T. S. KuhnThe Structure of Scientific Revolutions である。この本が、統一科学構想のみならず、論理実証主義をも思想的に転覆させる事になる。

補足的な事柄ではあるが、ウィーン学団の解体に付いて

ウィーン学団は常に自由な議論の場として有ったと云われ、終焉は唐突だった。

「自然数論の無矛盾性を自然数論の内部では証明できない」ことを導いたゲーデルの不完全性定理が発表された翌年の 1933 年、ゲーデルの指導教官であり擁護者でもあったハーンが急逝した。ハーンは、ウィーン学団の発足メンバーであり、マニュフェスト「科学的世界把握 - ウィーン学団」の編集代表者であり、主催者の一人でもあった。

そして 1936 年、学団の主催者シュリックそのひとが、元学生のナチス党員に射殺された。シュリックはユダヤ人だった。この事件に前後して、ウィーン学団の大部分のメンバーは英米に移住したと云う。

そして 1938 年のナチス・ドイツによるオーストリア完全併合を待たずして、学団は解体した。

その後、シカゴ大学に移ったカルナップらのグループを中心に継承されて いき、それをウィーン=シカゴ学団と呼ぶこともあるが、ゲーデルの不完全性定理、ウィトゲンシュタインの「哲学探求」、ソシュールの記号言語学、構造主義、文化人類学の文化相対主義などが相次いで重なることで、思想の潮流は論理実証主義を見捨て、科学哲学的には新科学哲学に道を譲り渡すことになって行った。

しかし、正直に言えば、ダーヴィット・ヒルベルトの、形式主義を完遂せんと欲するヒルベルト・プログラムは魅力的なものだし、カルナップの、全ての科学を物理学で説明しようと云う物理学還元主義的統一科学構想にも容易には断ち難い誘惑に駆られる。また、操作主義や経験主義に基いた科学理論の基礎付けと云う描像も、直感的に受け入れてしまう。

そこで、「これらの思想にはどこに誤りがあるのか?」、「明白な誤りが有るとするならば、それをおして尚誘惑されるのは何故か?」をより明晰にしなければならない。その為には、最も典型的であろう、マッハ、ジョン・ハーシェル、ポワンカレ、カルナップ、ポパー、デュエム、クワイン、ハンソン、バターフィールド、コイレ、クーンらの主張する概念を図式化し、吟味する必要が有ろう。しかし、それはまた別の話である。

本稿では、クーンの科学哲学に焦点を絞ることにする。次に見ておくのは、論理実証主義を批判的に継承したポパーの反証可能性を本質とする科学哲学である。

批判的合理主義

Thomas Samuel Kuhn を論じる際に必ず名前が挙がる男がいる。 Karl Raimund Popperである。

Sir. K. R. Popper論理実証主義 (logical positivism) 批判として、論理は実証され得ず、常に反証 (falsify) に開かれているものと主張した。一般に、科学的言明は、例えば、「全ての鴉は黒い」のような全称命題であるが、これは経験的には実証 (verify) できない。実証 (verification) は必ず有限個体数に限られるからである。しかし、白い鴉が一羽観察されれば、この命題の真理性は崩れ、代わって「全ての鴉は必ずしも黒くない」と云う命題が成り立つ。この「白い鴉」が「反証例」である。そして、科学理論は、現時点で反証されていない暫定的な理論であり、反証によって覆され、より「良い」ものへ連続的、且つ不可逆的に発展していくものであると考える。従って、反証に対して開かれたものが、科学と呼ばれる資格を持ち、この点で例えば占星術は非科学であると云う。科学 (science) と非科学 (pseudoscience) を区別する境界設定の問題は、自ら批判的合理主義と呼ぶ Popper の科学哲学の出発点である。

Popper によれば、批判的態度こそが合理主義的態度であり、彼の態度は、「開かれた社会」と「合理主義的精神」への賞賛である。この、「反証可能性 (falsifiability) を本質とする科学観」は、知を徹底的に open-ended な物として記述し、研究活動を偉大な謎を探求する果てしない物語としてロマンチックに描いてみせた(推測と反駁 藤森隆志他訳、法政大学出版局、1980)。

Popper はここで概観したような単純馬鹿ではない。今世紀最後の哲学者との誉れ(?)も有るのだ。詳しくは慶応大学内に置かれている日本ポパー哲学研究会を参照されたい。LINKSを含めてかなり広いwebである。Popper入門として、「果てしなき探求 知的自叙伝 上・下 岩波書店同時代ライブラリー 248, 256」を勧める。

これは確かに魅力的なものだったが、T. S. Kuhn にとっては、ある種の白々しさ、迫真性の欠如が感じられたという。Popper派は科学者たるもの、科学たるもの如何にあるべきかを語りはしても、研究活動を適切に記述し得ないものだった。この点で、 Popper 派は、批判的合理主義的科学観は、「事実問題」を論じているのではなく、古い理論を放棄し、新しい理論を採用する合理的な権利である「権利問題」を論じていると強調する。

これに対して、実際の研究室から「科学研究の歴史方法論的革命」を謳ったのが本書である。 Popper に付いては、蓋然性検証理論と共に「構造」の XII. Resolution of Revolutions で扱われている。

シンボリックに云えば、K. R. Popper規範的「〜あるべし。」であり、T. S. Kuhn叙述的「〜である。」である。

T. S. Kuhn に対する批判は多いが、規範的態度と、叙述的態度との間の混乱の指摘はその代表的な物である。Postscript-1969 は、主にPopper派からの批判に対する応答である。

T. S. Kuhn は科学の論理性を見つめ直し、むしろ優れて人間的な営為であると主張し反証例; falsifyすら認めない。著者によれば、本書は「科学者集団の社会学」と位置付けられている。確かに本書に於いて科学は、「自然現象の数学上への射影」というより以上に、「科学者=人間の、あるいは或る(限定的な) community のもつ意識と相似な構造を持つもの」として描かれているように思う。

本書が社会学の名に値するかどうかは別として、批判的合理主義を含めた論理実証主義(ホイッグ史観)に否を唱え、科学哲学に社会性を持ち込んだことは、Kuhn の功績と言えるだろう。

1.2 Paradigm 概念の転回

本書で導入されたパラダイム (paradigm) の概念はその後広く普及し今日批評文などで便利に使われている。日本では文化訳として「知の枠組み」、「判断枠組み」、「準拠枠」といった言葉が当てられているようである。

この事情は彼の本国アメリカでも同様のようで、もはや technical term としては収拾できない状態であり、T. S. Kuhn は事ある毎に本書の誤読を嘆いていた。 しかし当の本人も認めているように本書の必要以上に晦渋な記述に責があるようだ。用語も統一されておらず、未定義の私的言語が頻出し、しかもこれが論述上で重要な地位を占めるものであったりする。 "Paradigm" という term が普及した原因は、この曖昧さにあるというのが一致した見解である。

このような状況は、もともと "Paradigm" と云う概念に備わっていた性質の為であることを認めるのも吝かではないが、今日の "Paradigm 批判"は、 T. S. Kuhn から離れたところで行われているように感じられるのも事実である。

1.3 Kuhn 周辺

Kuhn の科学観は新科学哲学 (new philosophy of science) に属するものである。ウィーン学団論理実証主義(1924 科学的世界観、ウィーン学団)、それを批判的に継承した Popper の批判的合理主義らに反対する立場を取るこの思想へのLudwig Wittgenstein (1889-1951) からの影響を指摘しておきたい。ただし、T. S. Kuhn のウィトゲンシュタイン理解は些かウィーン学団寄りのように思われる。この立場を取る科学史家、科学哲学者はノーウッド R. ハンソンマイケル ポラニースティーブン トゥルーミンポール K. ファイヤアーベントイムレ ラカトシュらである。

I. ラカトシュ は、 Popper の弟子であり、科学において、その合理性を擁護したと云う点では明らかに Popper の継承者である。

P. デュエム (P. Duhem) は、物理理論の全体論 (holism) を主張した。これは、物理理論は全体として有機体的統一を成しているのであり、理論の全体から或る特定の基礎的な仮説を独立に抜き出すようなことはできず、従って、これを独立な実験に一義的に結び付けて、実証したり反証したりはできないとする姿勢である。即ち、反証実験自体が、理論の枠組み全体の中で企画、設計、解釈されるものであるから、一見特定の命題に対する反証のよう見えても、その実、指摘していることは、この実験に当り採用した理論枠組みのどこかに誤謬があることを示せただけでり、特定の命題そのものについてであると主張することはできないと云うことである。

これは、反証的実験と決定的実験の両方が原理的に起こり得ないと云う事を帰結し、ポワンカレ、マッハらの、帰納主義、現象論的還元主義、規約主義、道具主義的経験論など、当時支配的であった経験論的還元主義に対する厳しい批判であった。その後、ウィーン学団の論理実証主義の台頭により、その主張は隠されたが、クワイン、ハンソンらに継承され、新科学哲学の基礎として脚光を浴びることとなった。

クワイン (W. V. O. Quine) は、デュエムの全体論 (holism) を擁護し、後に新科学哲学と呼ばれる科学哲学の礎を築いた。特に、当時支配的であった論理実証主義を代表するカルナップの、理論を理論言語と観察言語に分けて、観察言語に対する実証主義を主張する道具主義的蓋然性検証理論に対して、「理論を経験的部分と理論的部分に分けて、或る言明を他の言明から独立させて、対応するとされる経験の反証や確証に付すことはできない」と主張した。そして、これを物理理論以外のあらゆる体系的知識全体に拡張して、知識の全体論 (holism of knowledge) を主張した。クワインとデュエムの全体論的主張を、新科学哲学におけるクワイン=デュエムのテーゼと呼ぶ。知識の有機体的統一と云う観点は、「もの」から「こと」への転換を意味し、ソシュール言語学に端を発する構造主義の萌芽と見ることができる。

ノーウッド R. ハンソン (N. R. Hanson) はデュエムの見解を採用し、観察の理論負荷性を提唱している。これは、科学的な観察は理論を背景として解釈されて初めて意味を持つと云うことであり、ハンソンに於いては、異なる理論の下での観察を、実験心理学の認知心理学で用いられる、ゲシュタルト・チェンジと同一視することで主張された。すると、或る理論の基礎的な仮定の一つを、それとは独立な経験的事実によって真偽の判定を下すことはできず、反証実験と云う概念自体が不可能であると云うことになり、既存の理論を打ち倒すのは反証となる実験事実そのものによってではなく、これらの蓄積された異常な実験事実群を解釈する新たな理論によると云うことである。 Kuhn はこの点で、反証となるべき異常な実験事実の蓄積が科学革命を準備する有様を記述している。

T. S. クーン (T. S. Kuhn) は、ハンソンの理論負荷性と云うテーゼをさらに押し進めて、理論の変換をパラダイム変換と云う革命的な現象であると考え、革命前後の理論のパラダイム間では、基礎的な仮説、正当な研究とは如何なるものであるかなどの根本的な土台が異なるので、相互に比較することが不能であり、共通の用語、定理、実験事実に付いても、直接的に比較することができないと考えた。この概念が、共役不可能性 (incomensurabirity) である。この結果、異なる科学理論の間に優劣をつける独立な客観的視座を置くことができず、科学の歴史を、より包括的で優れた理論が古いものに取って代わる勝利者史観(ホイッグ史観)では捉えられないとする、科学的相対主義への道につながることになる。

I. ラカトシュの親友でもあった Paul Karl Feyerabend (1924-1994) は、それまで支配的に君臨していた論理実証主義、批判的合理主義に対して最も先鋭的な批判を加えており、現在の科学史 (history of science)、科学哲学 (philosphy of science)、科学社会学 (sociology of science) において決定的な影響力を持っている。 T. S. Kuhn はその二つ年上 (1922-1996)、 The Structure- (1962) はファイヤアーベントが精力的な著作に手を染める (1975-) 一世代前の仕事である。 Kuhn よりも先鋭な相対主義者と知られる彼は、共役不可能性の概念を Kuhn と共有し、クーンは相対主義的であると批判されるのを恐れて不徹底に終わっているとして批判している。

T. S. Kuhn は理論物理学の専門教育(博士修了 Ph. D)を受けており、逆に云えば社会学、歴史学、文献学、哲学、教育学などの組織的な専門教育は全く受けていない。これに対して、ウィーンで生まれた P. K. Feyerabent は、元々声楽の訓練を受け、他に演劇史、演出法、和声楽などを修めている。第二次世界大戦従軍後は、大学で数学、天文学を学ぶ傍らで歴史学も学び、最終的には哲学に専念する。論理実証主義系のサークルの企画、運営に携わるなどし、その後、ロンドン、コペンハーゲンを経てウィーンに戻り哲学講師、アメリカに渡りカリフォルニア大学バークリー校哲学教授に就任する (1958-)。以来、科学哲学の専門誌に、論理実証主義的な経験主義を批判的に検討すると云う流れで「正当な」論文を執筆し (1962-) 、高く評価される。このような「専門的努力」を背景として、先鋭的な著作群を次々と発表するのはその十年後、 1975 (Against Method, Outline of an Anarchistic Theory of Knowledge) からである。因みに、彼はマスコミ嫌いでも有名である。

P.K.Feyerabend 著作;
方法への挑戦 科学的想像と知のアナーキズム
新曜社 (原著;Against Method, 1975),
理性よ、さらば
法政大学出版 (原著;Farewell to Reason, 1987),
哲学、女、そして… ファイヤアーベント自伝
産業図書 (原著;Killing Time, 1995).

海外サイトではあるが、詳しくは the University of Virginia に置かれている Spoon Collective (The Spoon Collective is dedicated to promoting discussion of philosophical and political issues. Foucault, Deleuze-Guattari, Bataille, Frankfult school, Niezsche,Discussion of philosophy, literature, and the critical space of their encounter, and so on) 直下の The Feyerabend を参照されたい。

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文責;菅井 学 Sugai Manabu, E-mail : SUGAI, Manabu.
(27th/ Feb./ 2001)
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