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ウィーン学団の論理実証主義

1920年代にウィーン大学の哲学教授 シュリック(Moritz Schlick,1882〜1936) を中心に形成された自然科学者や哲学者の研究グループは ウィーン学団(Weiner Kreis) を名乗り、 論理実証主義(logischer Positivismus, logical positivism) 運動を展開した。

ウィーン学団成立当時の思想的背景には、次のような点が指摘される;

このような時代背景において、ウィーン大学教授であった位相幾何を専門家とする数学者 H. ハーン(Hans Hahn) と、彼によって招聘された M. シュリック を中心とする、自然科学者、数学者、哲学者、学生による私的研究セミナー(シュリック・サークル)が発足した。 主催者の M. シュリックは、物理学の学位を取得後、一般相対論の哲学的解釈、帰納科学の哲学を研究していた。シュリック・サークルは、 1926年に講師として赴任したルドルフ・カルナップ(Rudolf Carnap, 1891-1970) を加えて更に本格化し、ウィーンのシュリック・サークルを中心とした「エルンスト・マッハ協会」と、ベルリンのヘンペルらによる「経験哲学協会」が、 1929 年に合同集会を持ったところからウィーン学団が始まる。

ノイラートによって命名されたウィーン学団は定例会を持ち、マニュフェスト(綱領文書)科学的世界把握 - ウィーン学団 を刊行し、当時のインテリゲンチャに絶大な影響を与えた。因みに、この綱領には、科学的世界観の指導的代表者として、アインシュタイン、ラッセル、ウィトゲンシュタインの名前が挙げられている。

但し、ケンブリッジの B. ラッセル(Bertrand Russell, 1872-1970) 以外はこの運動に全く参加しておらず、L. ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein, 1889-1951) に至っては、全く経験論的な還元主義を持ち合わせておらず、論理実証主義自体も批判している。何れも、「真なる命題の全体が自然科学の全体である」と主張し、形而上学を排除すると云う点では共通したが、最も先鋭に対立したのが、論理実証主義の検証可能性テーゼ「有意味な命題はすべて経験的に検証可能でなければならない」、「真なる命題は検証可能な命題であり、偽なる命題は反証可能な命題である」と云う点である。

この運動には、次のような人物も直接的、間接的に関与していた;

ゲーデルはウィーン学団の団員とみなされる事を露骨に嫌悪していたようだが、ハンス・ハーンを指導教官とし、その綱領にも名前が載っている。また、その議論の相手も多くが学団員であった。ポパーもまたハンス・ハーンを指導教官としたらしく、また、相互に議論していた。ファイヤー・アーベントは、若い頃に論理実証主義系のサークルに参画していた。何れも論理実証主義を鋭く批判することになるが、相互に議論し、刺激しあっていたと考えて良い。

論理実証主義の科学哲学

論理実証主義の目的は、形而上学を、感覚的経験によって判定する術が無い命題を無意味であり、価値が無いとして退け、真に有意味な命題と概念の論理分析を果たすこと、即ち、論理分析による概念の明確化であった。そこでウィトゲンシュタインの論理哲学論考 (Tractatus Logico-Phylosoficus, 1921,22) の果たした役割は大きいが、それは別の話。

この、論理実証主義における科学哲学は、科学論理学と自称され、個別科学によって経験的に分析された命題や概念の、論理的連関を解明し、経験的に実証する手続きを明らかにしようとしたのである。ここで、採用された「科学的方法」が、分析と総合を交互に繰り返す仮説演繹法である。

演繹法と帰納法は、アルストテレスに始まり、それぞれ R. デカルト、 F. ベーコンによって代表される。これらは、経験的なものに基礎を求める実証的側面と、生得的(理性的)なものに基礎を求める論理的側面に注目すると、経験的ファウンデイショナリズムと、演繹的正統化主義として理解出来る。これを止揚したものが、仮説演繹法である。

これは、経験的な証拠から、現象を説明する「真の原因 (vera causa)」や法則を帰納的に仮定し、そこから実証し得る個別的事実を演繹的に導き出し、それを経験的に検証、反証し、それに基いて理論を形成すると云う手順である。論理学者のなすことは、個別科学者により帰納的に提起された仮説に対して、検証可能命題を演繹し、経験的に実証すること、従って、既存の科学理論の正当化の手続きである。

この、意味の検証可能性テーゼに従って、当初は完全検証可能性「科学的命題は、有限個の観察可能な命題に、論理的に還元できる」が主張されていた。

論理実証主義の科学哲学を代表する R. Carnap は、この完全検証可能性を検討するに当り、マッハ流の還元主義的現象論に従って、中立の直接的経験から知識体系を構築しようと試みていた。これは、科学的知識を、観察命題の集合である観察言語と科学的命題の集合である理論言語とに明確に分離できるものとし、観察言語の部分が直接的経験に根差していれば実在するとみなす実証主義的立場である。これは観察言語の中立性を基盤とし、理論言語は観察言語を組織分類するための便宜上の道具であるとする。この態度を、道具主義とも呼ぶ。カルナップはその後、単純な還元主義的現象論からは客観的な理論体系が構成できないとして、物理主義へ転回した。これは、座標系を導入し、基礎的命題は、現象論的言語「熱さ」ではなく、物理言語「温度」で表現されなければならないとする立場である。

蓋然性の検証理論

この、意味の検証可能性テーゼは、ポッパーらウィーン学団内部から、科学的仮説である全称命題は、実験事実である単称命題の有限集合からは、理論的に導出できない事が指摘され、検証可能性の基準は、仮説が真であるとみなされる確率を与える蓋然性(確証)の概念へと転回して行き、蓋然性の検証が目標となった。

統一科学構想

論理実証主義の科学哲学の影響はもう一つ有る。それは、経験科学の言語論的統一、即ち、統一科学の理念、即ち、社会学は心理学へ、心理学は生物学・医学へ、医学は生物学へ、生物学は化学へ、化学は物理学へと、論理分析を通して還元されるべきであるとするものである。例えば、「全ての化学反応は、一つの量子力学的公式で記述できる」とする命題がこれに当る。これも、マッハの要素一元論、即ち、科学を感性的諸要素「色、熱、音、時間、空間」の函数関係の縮約的記述に帰着する存在論的統一を継承したものである。

この、統一科学 (Unified Science) の構想は、物理学的還元主義として計画され、ボーア、デューイ、ラッセル、タルスキらの参画の下 1938 年イギリスで計画され、ナチスによる弾圧の下、ウィーン学団の解体を経て、戦後アメリカに招聘されたカルナップらを中心にして実行に移された。それが「統一科学基礎シリーズ」の刊行であり、その第二巻第二号こそが、 T. S. KuhnThe Structure of Scientific Revolutions である。この本が、統一科学構想のみならず、論理実証主義をも思想的に転覆させる事になる。

ウィーン学団の解体

ウィーン学団は常に自由な議論の場として有ったと云われ、終焉は唐突だった。

「自然数論の無矛盾性を自然数論の内部では証明できない」ことを導いたゲーデルの不完全性定理が発表された翌年の 1933 年、ゲーデルの指導教官であり擁護者でもあったハーンが癌で急逝した。ハーンは、ウィーン学団の発足メンバーであり、マニュフェスト「科学的世界把握 - ウィーン学団」の編集代表者であり、主催者の一人でもあった。

そしてナチスの台頭により、自由主義的なウィーン学団はプレッシャを受け、多くのメンバーが出国する中、 1936年6月22日、学団の主催者シュリックそのひとが、元学生のナチス党員に射殺された。シュリックはユダヤ人であり、ナチスの政治的プロパガンダにも使われたらしいが、実際には元学生は精神異常者だったらしい。この事件が最後の引き金になって、殆どのメンバーが英米に出国した。

そして 1938 年のナチス・ドイツによるオーストリア完全併合を待たずして、学団は解体した。

その後、シカゴ大学に移ったカルナップらのグループを中心に継承されていき、それをウィーン=シカゴ学団と呼ぶこともあるが、ゲーデルの不完全性定理、ウィトゲンシュタインの「哲学探求」、ソシュールの記号言語学、構造主義、文化人類学の文化相対主義などが相次いで重なることで、思想の潮流は論理実証主義を見捨て、科学哲学的には新科学哲学に道を譲り渡すことになって行った。

しかし、正直に言えば、ダーヴィット・ヒルベルトの、形式主義を完遂せんと欲するヒルベルト・プログラムは魅力的なものだし、カルナップの、全ての科学を物理学で説明しようと云う物理学還元主義的統一科学構想にも容易には断ち難い誘惑に駆られる。また、操作主義や経験主義に基いた科学理論の基礎付けと云う描像も、直感的に受け入れてしまう。

そこで、「これらの思想にはどこに誤りがあるのか?」、「明白な誤りが有るとするならば、それをおして尚誘惑されるのは何故か?」をより明晰にしなければならない。その為には、最も典型的であろう、マッハ、ジョン・ハーシェル、ポワンカレ、カルナップ、ポパー、デュエム、クワイン、ハンソン、バターフィールド、コイレ、クーンらの主張する概念を図式化し、吟味する必要が有ろう。しかし、それはまた別の話である。


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SUGAI, Manabu.
13th/Mar./2000
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